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東京地方裁判所 昭和41年(ワ)9720号 判決

原告 トンボ鑪製造株式会社

被告 永江信也

右訴訟代理人弁護士 池田純一

主文

一、被告は原告に対し、金一六二、七〇四円を支払え。

二、原告のその余の請求を棄却する。

三、訴訟費用はこれを一〇分し、その九を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。

四、この判決は、原告勝訴の部分に限り、仮に執行することができる。

事実

一、当事者の申立

原告代表者は「被告は原告に対し、金一八一、二五〇円を支払え。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決および仮執行の宣言を求め、被告訴訟代理人は、「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする」との判決を求めた。

二、当事者の主張

(請求原因)

原告は、昭和三六年九月一四日、被告に対し、原告所有の別紙目録記載の建物(以下本件アパートという)のうち、第二八号室九・九一平方米(四畳半)の一室(以下本件室という)を、賃料一カ月金四、〇〇〇円の約定で賃貸した。

よって原告は被告に対し、被告が賃料を支払わなくなった昭和三七年八月一日から右賃貸借契約を合意解除した同四一年八月一三日以前である同年七月三一日まで一カ月金四、〇〇〇円の割合による賃料債権合計金一九二、〇〇〇円を有するところ、被告が原告に差し入れていた敷金八、〇〇〇円および被告が原告のために立替えて支払った電気小型計量器の代金二、七五〇円を差引いた残金一八一、二五〇円の支払いを求める。

(請求原因事実に対する認否)

請求原因事実は認める。

(抗弁)

一、原告は昭和三七年八月ごろ被告からの賃料の受領を拒絶したため、被告は同月分から昭和三八年一二月分まで一カ月金四、〇〇〇円の割合による賃料合計金六八、〇〇〇円を東京法務局に供託した。ところが訴外津田淳が昭和四一年七月二八日、被告の右供託金取戻請求権につき差押および取立命令を得て、右金額に利息金五〇九六円を加えた額から金五二、七〇〇円の取立を得、さらに執行費用等が支払われたが、残金一八、五四六円が現に原告のために供託されている。よって右同額につき賃料債務は消滅した。

二、被告は、昭和四二年七月八日行われた本件口頭弁論期日において被告の原告に対する次の債権を自働債権として、原告の被告に対する前記賃料債権と対当額につき相殺の意思表示をした。

(一)  原告は被告に対し、請求原因記載の賃貸借契約に基づき、本件室を居住として平穏に使用させる義務を負っているにも拘らず、前記のように賃料の受領を拒絶して、何ら正当な更新拒絶理由がないのに、昭和三八年三月一三日、東京地方裁判所に対し、本件室の明渡訴訟を提起して、被告に応訴の苦痛を負わせ、また明渡を強制する手段として、本件アパートの他の室および隣接した原告所有の二棟のアパートを昭和四一年七月、八月にかけて学生多数に貸して使用させたため、騒音のため平穏な生活を不可能ならしめ、よって被告は同年八月一三日本件室の立退きを余儀なくされたものである。

原告の右行為は賃貸人としての債務の不履行であって、これにより被告は精神的損害金二〇〇、〇〇〇円および財産的損害金九二、二〇〇円(内訳けは、前記明渡訴訟に応訴するため訴外池田淳弁護士に支払った報酬金五二、七〇〇円、現在の借室へ転居するに要した費用として、権利金二五、〇〇〇円、敷金五、五〇〇円、仲介手数料金五、五〇〇円、運送賃金三、五〇〇円)合計金二九二、二〇〇円の損害を被ったので、被告は原告に対し、同額の損害賠償請求権を有する。

(二)  原告は被告に対し右(一)記載の各行為に加えて、前記供託金取戻請求権に対し昭和三九年六月二九日被告に対する賃料ならびに賃料相当損害金債権保全のため仮差押をなし(東京地方裁判所昭和三九年(ヨ)第四八八四号)賃借人たる被告の生活の平穏を著しく害した。右の各行為は、原告が被告に対し本件室明渡請求権を有しないのに、その結果被告の生活の平穏を害することを知りながらなしたものであり、仮に知らなかったとしても過失があるから被告は不法行為に基づき原告に対し前記(一)と同額の損害賠償請求権を有する。

(抗弁に対する認否ならびに原告の主張)

抗弁事実第一項は認める。

同第二項中原告が賃料の受領を拒絶して被告に対し本件室の明渡訴訟を提起したとの点、被告主張のころ学生を入居させたとの点および被告主張のような仮差押をしたとの点は認めるが、被告主張のような財産的損害があったとの点は知らない。その余の事実は否認する。

被告に対する本件室の賃貸期間は二カ年であったから、昭和三八年九月一三日限り期間が満了すべきところ、原告は、

製造事業が不振のため、社運を挽回する目的で紡毛事業を計画し、訴外松栄紡繊株式会社が使用していた紡毛機械を購入し、本件室を含む三棟のアパートがもと工場用建物であったことから再び工場に改造して、右紡毛機械を搬入して、右三棟のアパートを工場として使用する必要を生じ被告を含むアパート入居者に明渡訴訟を提起したものである。

学生を多数入室させたのは、大学受験予備校の夏季講習会に出席するための、地方出身の高校生の宿として右アパートの空室を使用させたものであって、学生達は熱心に勉強しており、被告の生活の平穏を侵すことはなかった。

三、証拠関係〈省略〉

理由

一、請求原因事実については、当事者間に争いない。

二、抗弁事実一の供託の点は当事者間に争いないから、原告に対する賃料債務弁済のために現に供託されている金一八、五四六円の限度で原告の被告に対する賃料債権は消滅したものというべきである。

三、抗弁事実二の相殺の点につき、被告主張の自働債権の存否について判断する。

(一)  債務不履行を理由とする損害賠償請求権の存否について。原告が被告に対し、昭和三六年九月一四日本件室を賃貸したことは前記のとおり当事者間に争いないから原告は被告に対し本件室を使用収益させる義務を負っていたのであり、右賃貸借が居住を目的としたものであることは明らかであるから、この義務の中には、原告は被告が本件室を住居として平穏に使用することを妨げてはならない義務を含むものというべきである。

被告が原告の右のような義務に反する行為として主張する事実のうち、原告が昭和三七年八月以降賃料の受領を拒絶したこと、原告が被告に対し昭和三八年三月一三日期間満了による更新拒絶を理由として、本件室の明渡訴訟を提起したこと、原告が被告主張のころ、本件室附近のアパートの室に学生を入居させたことは当事者間に争いない。しかしながら

(1)  賃料受領拒絶の点は仮にこれが債権者の受領遅滞となるとしても、これと被告主張の損害との間には因果関係を認め難い。

(2)  次に明渡訴訟を提起した点については、もともと訴訟が紛争解決のために設けられた公の制度であり、およそ一定の権利ないし法律関係についての紛争がある以上、何人もこの制度を利用する自由があるのであるから、賃貸人が賃借人に対し目的物の返還を求めるために訴訟の手段に出ること自体は何ら賃貸人の義務に反するものでないことは勿論である。たゞ返還請求権が存しないことが当初から明白であるなど訴訟の手段に出たことが不当とされる場合であって、かつ訴訟の手段に出たことが賃借人の目的物の使用収益を事実上妨げる結果となるような事情がある場合等特別な場合には賃貸人の債務不履行となる場合があり得るので以下本件につき検討する。〈証拠〉によると次の事実が認められる。すなわちもともと原告は本件室を含む本件アパートに隣接して二棟のアパートを所有して、これを三十数世帯の者に賃貸していたが、これはもと原告の工場として使われていた建物であって、原告会社の工場の敷地内にあったこと、ところが、原告は、その鑪製造事業が不振のため、紡毛事業部門に進出して業績の挽回を図ろうと計画し、同社の傍系会社松栄紡織株式会社が倒産し、同社で使用していた紡毛の機械類を訴外川住龍雄が競落しそれを原告会社が購入したので、本件アパートを工場および社員寮に改造して、右機械を搬入して操業するためアパートの明渡しを得て、これを使用する必要性を有していたこと、そこで原告は、本件アパートに居住する被告を含む三五人を被告として、昭和三七年八月一三日に内五名に対し、次いで同三八年三月一三日に内被告を含む三〇名に対し、東京地方裁判所に更新拒絶により賃貸借契約が終了したとして、建物明渡訴訟を提起したこと、原、被告間の本件室に関する賃貸借は昭和三六年九月一四日から昭和三八年九月一三日までの二カ年の約定がなされており、したがって右訴提起の当時は原告の主張によってもいまだ賃貸借は終了していなかったから、原告は被告に対し、昭和三八年九月一三日限り明渡すことを求めたものであること、他方右訴提起の当時被告はいまだ独身であり、帝国歯科電機株式会社に勤務して月収二万九、〇〇〇円程度の定収入があったこと、右訴提起後訴訟の完結をまつ前にアパート居住者の多くの者が任意に明渡しをし、昭和四一年三月ごろには、被告を含む約一〇世帯がこれに居住しているに過ぎなくなり、被告も同年八月一三日本件室を明渡して他に転居したこと、そして右訴訟はその後同月三〇日に行われた口頭弁論期日に当事者双方不出頭のため休止となり、同年一一月三〇日の経過により取下が擬制され、判決によることなく終了したこと、以上の事実が認められる。以上の事実によれば右訴提起の当時更新拒絶の正当事由が存しないことが明らかであったとは到底いえず、したがって、原告が被告に対し明渡請求権がないことが明白であるのにあえて訴訟の手段をとったとは到底いえず、他にこれを肯認するに足りる証拠はない。また被告本人尋問の結果によっても右訴訟自体によって本件室の使用が事実上妨げられたと認めることはできない。

(3)  更に隣接アパートに学生を入居させたことについても、被告本人尋問の結果によれば、このことにより被告その家族の平穏がある程度妨げられたことが窺えるけれども、証人井上リキの証言に照すとそれが賃貸人の義務に反する程度に達していたとは到底認められないし、他にこれを認めるに足りる証拠は存しない。

以上のとおりであるから被告の債務不履行に関する主張は理由がない。

(二)  不法行為を理由とする損害賠償請求権の存否について。

賃料受領の拒絶をもって不法行為となすことはできないし、原告が明渡訴訟を提起したことも、前認定のような事実関係の下においてはこれをもって不当訴訟による不法行為と認めることはできず、また学生入居の点もこれによっていまだ不法行為となすことはできないこと前認定と同様である。

また、原告が供託金取戻請求権に対し仮差押命令を得たことが不法行為に該当すると被告は主張するが、右供託金は被告の原告に対する賃料債務を弁済するために供託したものである以上、被告の主張は理由がない。

四、よって、原告の請求のうち、供託によって消滅した金一八、五四六円の部分については失当であるからこれを棄却し、その余の部分については正当であるからこれを認容する。〈以下省略〉。

(裁判官 原健三郎)

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